八百善は、料理屋の枠を越えた、高級サロンのような存在でした。特に、八百善を大きく発展させた四代目善四郎の時代、八百善には文人墨客が集っていました。そんな一流文化人の代表が、大田蜀山人と、酒井抱一です。漢学者、狂歌作家、戯作者として知られる大田蜀山人(南畝)の狂歌に、その時代の一流どころを歌ったものがあります。
詩は五山 役者は杜若 傾はかの
芸者はおかつ料理八百善
この歌を記した一幅は、現在も八百善に残っております。
また、江戸後期を代表する画家である酒井抱一も、四代目善四郎が出版した「江戸流行料理通」の中の絵を描くなど、親しい間柄にありました。
「玉菊百年忌」が八百善で開催されたのも、この頃です。玉菊とは、江戸時代に非常に人気があった名妓で、享保年間のころ活躍したといわれています。
この「玉菊百年忌」には、四代目善四郎のほかに、酒井抱一、渡辺崋山などが参加しており、渡辺崋山はその時の様子を 「玉菊追善小集図」として描いています。
このように、江戸文化の成熟と発展した八百善は、文化の発信地でもあったのです。